2011年10月11日火曜日

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曹洞宗における坐禅って、
只管打坐(シカンタザ)
ただひたすらに何も考えずに坐る、

ってのが基本なんだけど、


まあ、まだまだ未熟者の僕は、坐ってると、
色んな考え事がフワフワと雨雲みたいに集まってくるんだ。
まあそれはそれで、きっと良い事だとは思うんだけど、
無、っていう状態がやっぱ難しくてさ。

『あ、今少しだけ無だったかも』

って思った瞬間から、もう無じゃなくってさ。
まあ、無、ってきっと、
捉えようとして捉えるものじゃないんだろうけど、
とにかく、無、ってのが難しくってさ。

それで、どうするかって言うと、
何も考えないために、
まあ、呼吸に集中するようになるんだ。


ゆーっくり鼻から空気を吸って、入ってくる空気を鼻で感じて、
ゆーっくり鼻から空気を吐いて、って。
これの繰り返し。


手も足も動かさないで、ただ呼吸に集中する。

そうすると、自分が生きるために、
空気を吸って空気を吐いてるだけ、
っていうシンプルな状態が続く。
もちろん坐ってる最中は、そんな事気づかないけど。

でも、身体とか、自分の意識の中の無意識は、
そういうシンプルな幸せに気づいてるんだろうな。



だから、
坐禅終了の鐘がなった時、

何だかよくわかんないけど妙に清々しかったり、
何だかよくわかんないけどスッキリしたりするんだろうね。

別に、世界がが変わるわけじゃないけど、
見える世界は変わってくるだろうな、続けてれば。

自分の意識では気づかないけど、
無意識と身体は気づいてる、っていう状態になる、っていうか。


そして、これに気づいたから何になる、って話だけど、
何か、気づいた瞬間は、地に足が着いてるような気がして、
何か安心したんだな、正直な話。
地を思いっきり蹴ってジャンプできそうだな。つってね。





これは、たまたま夫婦の話だけど、
家族も恋人も友達も、
『空気みたいな存在』に達した時、

空気を吸う事と吐く事の素晴らしさに、
自分がいて、
アナタ、がいる事の素晴らしさに、
改めて気づける時って、

どんな時だろう。



とりあえず、坐禅を続けてみよう。